地域に根差したコミュニティというフィクション

「地域」とか「コミュニティ」とかいう言葉。

いろんな人が美名として崇める傾向にあるけど、だんだん、"あるべき"「地域」や"あるべき"「コミュニティ」という理想と、実際の「地域」「コミュニティ」にギャップが生まれているのではないかと思う。

 

「地域」という言葉をコトバンクで調べるとこんなのが出てくる。

一定の意味を有する空間的まとまりとして区画された地球表面の一部であって,その周辺の土地空間とは異なる特徴,すなわち一定の指標に則して全体として等質性(均等性)あるいは統一性といった特性が識別される範囲。(後略) 

 コミュニティはこう。

居住地域を同じくし、利害をともにする共同社会。町村・都市・地方など、生産・自治・風俗・習慣などで深い結びつきをもつ共同体。地域社会。

「空間的まとまり」「居住地域」なんて言葉があるように、いずれも共通するのは土地にひもづいた関係であるということ。

僕は、この土地にひもづいた関係を礼賛する雰囲気に対して、ある種の違和感を持っている

 

一度、自分の体験に照らして考えてみてほしい。

あなたは確かに地上に住んでいるだろうけど、土地に帰属した関係が、自分の行動や人間関係にどれだけの影響を与えているだろうか

 

僕は高校まで富山で過ごし、大学進学以降、東京→広島→松江→東京→仙台→東京→富山とあちこち転々としてきた。その中で"地域に根差したコミュニティ"なんてものを経験したのは、おそらく小学校・中学校ぐらいのものだ。

たとえば、今住んでいるところは、実家と同じ富山県内ではあるけど、実家から車で1時間ぐらい離れたところ。町内会費は納めているけど町内会の催しなんて行ったことないし、お誘いがかかったことすらない。

 

僕みたいな人はおそらく日本中にいるはずで、"地域に根差したコミュニティ"なんてものがいまだに機能してるところってもうないんじゃないだろうか。地域との関係を感じた小学校・中学校時代にしたって、"学校"という枠で紐帯されいるからこそ成り立つ関係。学校が地域とひもづけされているから結果的に"地域"や"コミュニティ"らしさを感じるけど、学区と地域を取り違えた偽相関みたいなものだ。

 

おそらく、働き方の変容の影響が大きいのだと思う。

僕の親や祖父母ぐらいの世代は、まだ農業という土地に縛られる仕事が中心だった。僕の親父は兼業農家で、毎日片道1時間ぐらいかけて通勤していたが、一方で先祖代々の農地があるため、実家から動くという選択肢はなかった。この世代は、職業人として生きることと地域・コミュニティは密接に関わっていたんだろう。

逆にいえば、脱農し、みんながサラリーマンになったこの時代、「たまたま近くに住んでる」というだけの人にそこまで濃密な関係を求めるのははっきり言って無理な話だ。

 

これと同じ文脈でとらえることができるのが、「コミュニティカフェ」や「コワーキングスペース」、「シェアハウス」の流行。「たまたま近くに住んでる人同士がつながる」時代から「属するコミュニティを自ら選び、つながりに行く」時代に転換しているとみることができる。さらに言えば、ネットを通じていろんな人とつながることだって可能な時代、身近な"地域"には見つけられない、同じ趣味の人を遠く離れたところで見つけることだってできる。

 

そう考えてみると、「住民自治」とか「地方自治」とかいうけど、今や住むところと働くところは違うのが当然、下手すれば家にいる時間より職場にいる時間の方が長い場合だってある中で、"自ら治める"ほど地区とか市町村に対してコミットできるのか?というのが大きな問題になるのではないだろうか。いったい、「住民」というものが、どれぐらい当事者性を持って関わることができるのか。それを責任感がないとかと非難することは簡単だけど、そういうやる気論の問題ではないと僕は考えている。はっきりと言えば、地域に根差したコミュニティというは、いわばフィクションのようなものになっているのではないか。

 

みんながみんな職住近接で農業やってたり、近所の工場で働いてた時代ならともかく、人の行動範囲が広がり、職住分離が広がってきた中で、基礎自治体という単位がどこまで有効なのか?ということを一回考え直す時期に来ている。

「地方分権」なら万能、「住民自治」ならなんでもスバラシイ、というのはいい加減卒業する時期で、地縁から離れたところで、その地域を誰が・どういう仕組みで経営していくのかという地域経営を考えないといけない。