読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

U-Turner's Journal @Toyama

富山にUターンしてきました。

認知症の親を誰が『監督』するのか

名古屋高裁で、電車にはねられ死亡した認知症の91歳男性の遺族に、振り替え輸送代など損害賠償359万円の支払いを命ずる判決が下された。

事故は2007年、愛知県大府市で発生した。当時、認知症が進んだ男性は要介護4で、要介護1の妻(91)と2人暮らし。横浜市に住む長男の妻が男性の自宅近くに移り住み、手分けして在宅介護をしていた。男性はデイサービスから帰宅した夕方、長男の妻が屋外で片付けをし、自分の妻がまどろんだ間に外に出て徘徊中に事故に遭った。

 判決などによれば、電車事故の前にも2回、男性は徘徊で保護され、家族は自宅玄関にセンサーを設置したり、警察に連絡先を伝えたりしていた。また、男性が外出したがった際は長男の妻が付き添い、気が済むまで一緒に歩くこともあったという。

http://www.nishinippon.co.jp/feature/life_topics/article/85676

裁判長は、同居の妻を民法の監督義務者として、「賠償責任を免れない」と指摘。家の出入り口のセンサーを作動させるという容易な措置を取らな かったことで「1人で外出する可能性のある男性に対する監督が不十分だったと言わざるをえない」と述べた。だが、男性と別居して遠方で暮らす長男に対して は「介護について最も責任を負う立場にあったと言うことまではできない。監督義務者には当たらない」とした。

 一方、JRに対しては、駅での利用客などに対する監視が十分で、ホームのフェンス扉が施錠されていれば事故の発生を防げた可能性を指摘し、安全向上に努める社会的責任に言及。賠償額は請求の半分が相当と判断した。

http://mainichi.jp/select/news/20140424k0000e040221000c.html

Ed Yourdon / Foter / Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 2.0 Generic (CC BY-NC-SA 2.0)

 事故を起こした男性自身については責任能力がなく損害賠償を負うものではないが、その妻については徘徊防止のため設置していた出入り口のセンサーを切っていたことを踏まえ、「監督義務者として、十分ではなかった点がある」とし、民法上の監督責任があった、というのが判決の趣旨のようです。

 

この事件のポイントは、『責任能力がない人間は誰かが監督しさない』という法律上の要請と実際の介護の現実に、相容れない部分があるということでしょう。

確かに、妻には民法上の監督義務があったのだろうと思います。また、設置したセンサーを切っていたことは、監督義務者として不注意な点がなかったわけではないだろうと思います。

この方の個別の事情は知り得ないので、あくまで一般論ですが、そういう社会的要請に対して、すべての介護者が負っているその義務を十分に果たせる社会的な環境が今あるのか、というとまた違うのではないかと、一方で僕は思うのです。

  

「病院から在宅へ」「施設から地域へ」というのが今の医療・介護政策の大きな流れになっています。

急性期病院なら在院日数は概ね2週間〜3週間しか認められないし、老人保健施設も入所者の在宅復帰率や回転率(!)で評価されるようになった。特別養護老人ホームもこれからは要介護3以上でないと原則入所できないように制度が変わる見込みです。

こういう風に病院への入院や介護施設への入所がだんだん難しくなっていく中で、施設にいられない人たちは、在宅での介護とならざるを得なくなっている。今まさに在宅介護をやっている人や、これからそうしていく人たちにとって、今回の判決はかなり脅威的なものだったのではないでしょうか。

 

今回の判決のショッキングな点は「自宅で介護となった途端、ただでさえ介護負担がある上、その行動にも常時目を光らせなければならない。それが介護を引き受けた側の義務である」という変な先例になりうるということ。

この事件では高齢の妻が監督義務者であったけど、例えば、もしフルタイムで働いている息子と認知症の親、という組み合わせだったらどうだったか

日中はデイサービスを使うとしても、夜はどうするのか。介護者は昼働いて夜も徘徊しないか監視するとなればもう寝る時間なんて確保できない。24時間の監督責任があるとなれば、家族介護なんて100%無理です。サラリーマンは介護のために仕事を辞めるか、できないのなら親の面倒は見るなと言っているのに等しい。

 

家庭内で24時間の介護が完結できたのは『嫁』がたくさんいた時代の話だ」という話を以前聞いたことがあります。

長男の嫁、二男の嫁、三男の嫁・・・と子供がたくさんいて同じ家か近所に住んでいて、その奥さんは専業主婦で、という介護の担い手が家庭内にたくさんいた時代で、かつ、高齢者は早く死んでしまって、という時代だったから、なんとか家族で面倒が見れた。子供は少ない、女性だって当然に働く、じいちゃんは長生きする、となれば同じモデルでいられるはずがない。

そもそも、介護保険制度が出来たのは「伝統的な家族介護」から少子高齢な人口構造や核家族化等の社会構造の変化を踏まえて「社会介護」へ転換させることが目的だったはず。

そういう中で、超高齢社会を目前に「施設から在宅へ」という政策誘導が進められ、その上、認知症の高齢者は自宅で家族が24時間面倒みなさいとなれば、いったい何のための介護保険制度だったのか、と言いたくなる。そりゃあ「民法は法務省の所管だけど、介護保険制度は厚労省の所管だから知らんよ」と言われてしまえばそれまでの話なのだけど、あまりにご無体なことだと思う。

本当にサラリーマンが一人で重度の認知症患者を24時間監視・監督しようとしたらもはや座敷牢つくって閉じ込めるしかないんじゃないでしょうか。でもそれじゃあまりにもデストピアな社会でしょう。

 

厚労省のデータによれば、後期高齢者の3割が要介護認定を受けていて、2012年時点で認知症患者は全国で460万人に上るらしいです。85歳以上に限れば40%以上が認知症を持っている。

平均寿命70歳の時代はそもそも介護が要るまで生きてる人が少なかったから、介護は一部の長生きの人とその家族だけの問題だった。だけど、今はすべての人が介護を必要とする時代になっている。こうなってくると、認知症高齢者を社会システムとしてどう受け止めるのかが避けられない課題になってくる。以前も記事を書いたように、社会保障制度は今を生きる人にとってもはや避けては通れない問題です

これは、ちゃんと監督してないやつが悪い、というだけの話ではない。座敷牢をつくるしかない、という社会にしたらだめですよ。

 

今回の判決では、JRに対して安全向上に努める社会的責任にも言及がありましたが、こういう考えをもっと社会に浸透させる必要があるのではないでしょうか。

一昔前はバリアフリーなんて全く意識されてなくて、車椅子の人が電車に乗るのはかなり難しかった。今はバリアフリーもかなり進んできて、むしろ出来ていないことが問題とされるようになってきた。これは、社会がバリアフリーを当然のこととして受け入れるように変わったということ。

認知症患者も「どこか山奥の施設で生活している人」でなく「街中で普通に出会う人」だという風に社会が認知して変わっていかなければ、この先の社会はうまくいかないんじゃないでしょうか。

「何かあったら監督責任者に損害賠償請求するわ!」という考えから「そういう人も地域にいるから保安対策を当然にちゃんとやらないといけないね」という風に、監督責任を社会全体がシェアしていくように、社会のマインドがかわらないととうていやっていけないと思います。