「なってない」と「自由」の間に、ぼくたちはどうやって線を引くのか

先日、仕事帰りにスーパーに寄ったら、険悪なムードのおっさん2人を発見。

肩がぶつかったようで、「オイ!痛てぇな!」って片方のおっさんが叫んでいた。

 

こういう光景、人が集まるところではそんなに珍しいものというわけではないけど、ちょっとぶつかったぐらいでイチイチ喧嘩するなんて、どえらい疲れる生き方をしておられるなと感じた。

 

まあ、確かにぶつかってスルーというのは、マナー的には「なってない」のは間違いない。でも、「なってない」のと「許せない」というのはちょっと違うのではないかと思う。

僕なんかの感覚だと、「別に怪我したわけでもなし、これしきの事でエネルギー使うなんてもったいない」という思いが先行する。

 

 

世の中の大部分の「なってない」ことのなかで、そんなに我慢できないほどのことってどれくらいあるのだろうか?

例えば、「電車やバスで子供が騒いでる」という光景は確かに「なってない」です。だけど、別にそれで他の乗客が死ぬわけじゃないよね。

クチャラーとかも全然「なってない」けど、不快なだけで何か実害があるわけでもない。*1

 

たしかに「なってない」とは思うけど、わざわざ自分が嫌われるようなマネまでして、「アンタちゃんとしなはれ!」と言うエネルギーがあるかというと、なかなかそこまではいかないという人が多いのでは。

 

逆に、「クチャクチャして何が悪いんや!誰か死ぬんか!」と逆に問われると、何て答えたらいいのかわからない。「僕が不愉快だから止めろ」というのは、自分の都合のために相手の(クチャクチャ言う)自由に制限を加えるわけで、理由としてはちょっと弱い。

 

自分のスタイルを誰にも邪魔されずに表現できる世界」というと、素晴らしく聞こえるけど、それが野放図に礼賛されると、その実出てくるのは子供が電車で走り回って、おっさんはクチャクチャ言う世界だったりするのではないだろうか。*2

 

要は、「なってない」というのと「自由」というのは紙一重な部分があって、そこにどうやって線を引くのかということです。

例えば自分に年頃の子供がいるとして、その子供が腰パンしてるのを見たとき、

 A:みっともないからやめろ!

 B:ファッションは自由や!好きにせい!

のどっちで声をかけるか。

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今の20~30代は「多様性」「自由」「個性」というのを礼賛する環境で教育を受けてきていると思うのだけど、そういう僕らのような世代がイイ大人になってきたこれからの時代、どういう規範意識をもって世の中の「常識」を構築していくのか。

仕事をしてればボツボツ部下も増えてくる時期、人によっては結構いい歳の子供もいるかもしれない。

 

自分も、今までは自分のことだけを考えればよかったけど、最近は人の採用にも関わっているし、他人の「人となり」に対して、ある程度の責任を負わないといけない年頃になってきた。

そうなってくると、ひとさまの生き方に対して、どこかで「モノサシ」を当てて、いいとか悪いとかを言わざるを得なくなってくる。

 

「多様性」「自由」「個性」というモノサシのない、相対化された世界で生きてきた僕たちの世代にとって「常識」とは何なのか。

 

答えはないんだろうけど、最近そんなことをよく考える。

*1:ちなみに僕はクチャラーが大嫌いです 。

*2:それが「スタイル」というだけの価値あるものかどうかはさておいても。