6月・第3日曜日

そういえば、今月末で国交省を退職して3年が経つ。

 

Twitterやfacebookのログなどを読み返すと、1日十数時間は余裕で働く過去のモーレツな仕事ぶりが浮かんでくる。それに引ひきかえ、この3年ほどのゆるゆるとした仕事ぶりは、我ながら「こんなんでいいのか?」と焦ってしまうときもあり「もう少し仕事する時間増やさないとまずいかな」と漠然と不安になったりもする。

 

だいたい、今の企業はフルタイムの正社員だと1日8時間+昼休憩1時間という働き方が標準的だと思う。

 

通勤時間は長い人短い人いろいろいるが、モデル的に片道30分、往復1時間と想定。睡眠時間も同様に多種多様だが、仮に6時間としてみよう。

そうすると、

24時間 - (8時間 + 1時間 + 1時間 + 6時間) = 8時間

この「8時間」が日本の正規雇用のサラリーマンが持てる「仕事以外」に使いうる時間の上限のモデルケースになる。

  

最近の自分の場合はどうかというと、朝7時半ぐらいに家を出て、帰ってくるのが7時前後なので、だいたい12時間は仕事関連に消費していることになる。先ほどの計算の上限より少し目減りした6時間が自分の「資源」だ。

 

これが、通勤に1時間半かかるところだとマイナス2時間、夜遅くまで仕事をする場合はさらにマイナス数時間、という風に、「資源」はどんどん減っていく。

 

自分の場合は、この6時間を分配して、息子のおむつを替えたり洗濯をしたり子供を風呂に入れたり寝かしつけをしたりしている。たまには本を読んだり勉強したりする。そして今はブログを書いている。

 

冒頭の話に戻ると、1日十数時間働くということは、それだけ自分の「資源」を仕事という人生の1つの要素に集中投入するということに他ならない。

 

あんまりインターネット上に書くと申し訳ないんだけど、うちの父が僕の息子氏(ようは孫)をしきりに抱っこしたがるのだが、それを見るたびに母が「あんた自分の息子にもそんなことしたことなかったでしょ!」と文句を言って茶化してくる。

 

これはとても象徴的なことだと思うのだが、時間という資源は限られているわけで、それを仕事に振り切ってしまうと、どうしたって家族と過ごす時間は減ってしまう。家族だけでなく、勉強などの自己投資の時間も同じことが言える。

 

そして、その結果は不可逆だ。うちの親父は30年経っても、30年前に息子の世話をしなかったことを非難されている。まあ、もちろん逆の話もあって、家庭を優先しすぎて仕事の方が・・・という場合もあるだろう。会社だってなんでもかんでも労働者の都合に合わせるわけにはいかない。

 

いずれにせよ、人生には様々な要素があり、投入できる資源の総量は限られている。どこかに注力すればどこかは手薄になり、20年後・30年後に思わぬ形で影響が及ぶ可能性がある。

 

また、自分にとっては「手持ちの時間をどう配分するか」というだけの問題であっても、自分の資源配分の仕方によっては家族や周囲の人の資源配分にも影響を及ぼすものだということにも思いを巡らせる必要がある。

 

冒頭の話で言えば、自分が”漠然とした不安”に駆られてシャカリキに残業したとすると今僕がやってるわずかばかりの家事や育児は奥さんに全部回ってしまうわけで、その分彼女の「資源」が更に削られてしまうことになる(もっとせい、と言われると立つ瀬がない)。

 

若いうちはとにかく仕事をしてないと不安で、意味もなく休日も職場に行ったりしていたけど、今改めて考えると、一人の人間として生きていくには仕事以外にも時間をかけないといけないことが実はたくさんあることに気づく。そしてそれは人と人の間で相互に影響しあっている。

 

どういう資源配分が最適なのか、今の時点ではわからないが、少なくとも、息子氏のおむつを替えたり寝かしつけたりは今しかできないので、できることはちゃんとしておく必要があるなと考えている(仕事で職責を果たすのは当然であるにしても)。

 

そんなことを考えた父親1年生、1年目の父の日でした。