ハイスペックだけど「本当にやりたいこと」がない人について

これら、なかなか身につまされる話。やりたいことは特にないけど、やりたくないことが多くていつも「本当にやりたいこと」を探している高学歴ホワイトワーカー、自分もそうだったし、周りを見てもたくさんいた気がする。人事担当者になり、中途採用をしていると、やはりそういう方と出会う機会も多い。

こういった方は、基本スペックは高いので何でもそつなくこなせるんだけど、「やりたいこと」や「できること」が薄い場合が多く、コモディティ的人材になりがちだ。

この”ハイスペ・コモディティ”は何をやらせてもそこそこ上手くできるけど、「本当に自分がやりたいこと」がない。だからいつまでたっても自分探しで難関資格を集めたり聞こえがいい転職を繰り返したりする。

でも「本当に自分がやりたいこと」は、悲しいかな、難関資格を取ったりや就職偏差値が高い会社に転職したりした先にはない。”マッチョ”なキャリアを重ねたところでハイスペ・コモディティが本当に欲しかったものは手に入らない。マッチョキャリアの輪廻に取り込まれてしまうだけ。

ハイスペ・コモディティがマッチョキャリアの輪廻から脱するには、自分自身にしっかり向き合うしかない。自分で「何をするか」を決めるしかない。外に答えはない。

土木的なものに、土木的でない何かをプラスアルファしていく

もう8年も前の話になるが、医療業界の前の仕事は土木系行政官だった。

 

いま振り返ってみると、土木計画だったり土木工事そのものは好きだった。最初に関わった道路工事やダム計画なんかは、今でも折に触れて思い出すし、鉄道行政も定期的に動向をウォッチしてしまう。息子がいわゆる「はたらくくるま」を見ていると、あれはね・・・などと解説してしまったりする。確かに土木は好きだった。

 

ただ、物事にはいろんな側面があり、自分自身が行政官として事業にまつわるいろいろなことを経験していくと、必ずしも土木を全面的に肯定することができなくなってしまった。少なくとも一生の仕事にしようとコミットする勇気が湧いてこなかった。土木には社会を変える力があるとは思っていたが、そのことを以て、土木にまつわる様々なことを包摂して肯定することができなかったのだ。


公共事業に携わっていると、信念というか、ある種の「信仰心」が必要とされる局面に出会う。

当時は逆風最大瞬間風速みたいな時期で、何かにつけて批判されやすかった。事業化するには色々なプレイヤーとの利害調整が必要、費用対効果分析も必要、財務省への説明も必要、政治家からは「早く地元の事業着工しろ」と詰められる等々、プロジェクト進めるためにはいろいろなハードルがある。いざ事業中にトラブル起きれば休みなく対応、やっとゼネコンと工事契約できたと思ったら設計変更でめちゃくちゃ揉める、、、etc. こんな大変なことを一生の仕事にするには、「土木の力」を強く肯定する力が求められる。

 

今、改めて当時の同僚や上司の姿を思い出してみると、やはり中核のポストには、自分たちの仕事の意義や役割について確信して事に当たっている人たちがいた。もちろん彼らは土木のいい面だけを見ていたわけではなくて、色々な面を見ながら、清濁併せ飲んで、それでも土木を是認していた。

 

自分はどちらかというと批判的な目が先行してしまう傾向があり、そこまで高いモチベーションは持てなかった。やはり自分には「信仰心」が足りなかったんだろう。私も「土木の力」はそれなりに信じているが、社会の変容が土木の力「だけ」でできるとは思えなかった。何か新しいインフラができれば何かが便利になるのは間違いないだろうが、地域を変えるほどの大きなインパクトは、土木だけではできないと思っている。新幹線や高速道路が出来たからって過疎地の人口は急増したりしないし、ダムが出来てもその能力を上回る洪水は必ず起きる。土木を活かす「プラスアルファ」が必要だと感じていた。いろいろ考えた末、自分は土木の世界を離れてプラスアルファの世界へ行こうと決めた。

 


最近改めて感じるのは、土木という「ツール」から解放されたことで、世の中をより正確に見ることができるようになったのではないかということ。例えば「まちづくり」という言葉ひとつとっても、国交省は区画整理のことを言いがちだし、経産省は商店街、厚労省は医療介護、文科省は地方国立大学の新興・・・とみんな違うことを考えている。同床異夢で自分にとって都合のいい解釈をする。そして大体の場合、相互に不可侵。連携しない。しかし、まちづくりのツールが国土交通行政的な区画整理や再開発だけのはずがない。

 

例えば、高齢者は公共交通がないと病院にもいけなくて・・・みたいな話を交通計画でする一方、実際には病院の無料送迎バスに乗って通院して院内の売店で飯買って家に帰ったりしている。送迎バスはいつも人いっぱいなのに、病院の前に停まるコミュニティバスはガラガラ。複眼的に見ていくと、本当はもっといろんな解決策があるはずだ。

 

土木的なものに、土木的でない何かをプラスアルファしていく。土木の信仰心は足りなかったけど、そういう方法で土木に貢献することはできるのではないか。これは意外と、シビルエンジニアの端くれだった自分にしか出来ないことなのかもしれないと最近感じている。

2021年はこんな感じで頑張っていきたい。

家事分担について

家事分担は

  1. 肉体疲労と精神的負荷
  2. 時間制約による機会損失
  3. 他の家事担当者との調整コスト

の最適化問題なので、なんらかの事情で調整コストが大きい場合は「全部ひとりでやった方がラク」みたいな話になりがち。

 

いわゆる「見えない家事」(実際には“見えない”家事なんて存在しないわけですが)なんかは、まさに③の調整コストの問題。庶務的なことについて、いちいち明文化したり出来てる出来てないと議論するのが面倒くさいから「自分がやった方が早い」になる。

 

なんらかの事情で家事の負担割合が高くなってくると、どこかで①②は閾値を超えて限界費用が逓減してしまうので、そうなると③のコストが小さい方がよくなる。そうすると、「自分でやった方が早い」「任せられない」「(相手が)全然気が利かない」みたいな思考に陥ってしまう。

 

こういう状況に陥るのを避けるためには、多少面倒くさくても、最初に家事プロトコルを決めてしまうことだろう。最初に時間を投資して③のコストを低減、これによって分担を進めて①②を抑制していく、というのがいい気がする。