「自分の仕事をつくる」という本を読んだ。
先日、紀伊国屋書店@富山市総曲輪に行ったとき、駐車場のタダ券欲しさに(2,000円以上購入で2時間無料だがその時1400円の本しか買う予定がなかった)、文庫コーナーに平積みされた本から適当に選んだだけだったけど、ロングセラーだけあってなかなか含蓄があった。
「いい仕事」はどこから生まれるのか。仕事を「この程度でいいや」ではなく「自分の仕事」にするには。といった視点で何人かの妥協ない真摯な仕事ぶりが紹介されている。
単行本になったのが2003年なので、今から15年前の本ではあるが、一昨年のWELQ問題しかり、昨今のいわゆる「ブラック企業」問題しかり、ここ数年で「仕事」をどう考えるかについて世間の関心が高まっている中で、時代を超えた大きな問いかけをしているように思う。
「人生の使命」を見つけた知人の話
東大卒→外資系コンサル→ITベンチャー取締役と、順調にキャリア積んでた知人がいた。
ベンチャーに転職した直後は「この会社を世界に知らしめるのが俺の人生の使命なんだ!」と彼はかなり意気込んでいた。転職した会社も、知る人ぞ知るサービスを提供しており、世界展開あるかというところに差し掛かっていた。霞が関でふらふら言われるままに仕事をしていた私からすると「人生の使命」と言い切る彼の姿はとても眩しかった。本書でいうところの「自分の仕事」を見つけたんだろうと思った。
その彼が最近その会社を辞めてしまったという話を聞いた。 ベンチャーで働いていた期間は5年ぐらいだろうか。
もちろん、とにかく同じことをやり続けるのがいいというわけではないし、長い人生の中で一体何が自分にとってベストなのか、考え直すタイミングはいろいろあっていいと思う。いい大人が諸々の事情を勘案し、違う仕事を考えようと考え至ったのだ。誰が文句を言うべきだろうか。
ただ「自分が本当にやりたいことが見つかった」と真剣なまなざしで語る当時の彼の姿と、つい最近知ったその顛末の間にある大きなギャップが、私の心にモヤモヤとした何かを残した。
言葉にすると陳腐になるが、ああ、「自分の仕事」を見つけ出すというのはやはり簡単な話ではないなと改めて感じ入った。
富山で出会った実業家の話
本書における「自分の仕事」の考え方は、ここ数年の間に富山で出会った何人もの実業家の友人知人のありようとも繋がりを感じた。
こんなことを言うと大変失礼だけど、彼らには東京の大企業の経営者のようなスマートさはない。みんながみんな一流の大学を卒業しているわけでもMBAを持ってるわけでもないし、価値観も未だに昭和っぽい人も少なくないし、酒が入ると会話成り立たないこともしばしばある(多分向こうもそう思ってる)。
ただ、彼らと一緒にいてとても心地いいと感じるのは、彼らは自分の仕事に真摯で、自分の仕事を通じて地域をどうにかよくしたいと真剣に考えているところだ。
当然ながら、彼らにも経営者としての悩み苦しみがあるわけだけど、「自分の仕事」にフルコミットする姿は楽しげで、ああいう仕事のスタイルが一つの理想型だなと感じる。
スキルだけではない企業文化
今、2つの話を挙げたが、別に「東京VS地方」とか「エリートVS非エリート」といった切り口で云々したいわけではない。「自分の仕事」というものを考えたとき、たまたま印象的だったことを紹介したに過ぎない。
ただ、マーケットがどうかとか、最新技術を使っているかとか、経営戦略がスマートかとか、そういう仕事の外形的な華々しさと、仕事に真摯に向き合えるかどうかというのは、実はあまり関係ないんだろうなと最近感じるようになってきた。
数年前から採用の仕事に関わっているが、かつては自分の中で採用基準は「何ができるか」「持ってる技能は弊社に役立つか」だった。より複雑なことができる人が優れているという尺度。「会社の今の業務をこなすのに役立つか」という視点だった。
ただ、これではその人が「今できること」以上の仕事を会社として用意することができないし、本人も自分の持ってるスキルセットから逸脱した仕事はなかなかしない。結局、お互いが停滞してしまう。
昨年ぐらいから採用基準を変え、「あなたは何をしたい人なの?」と聞くようにしている。仕事に真摯に向き合ってくれるのか。組織にいい影響に与えてくれそうか。「将来会社に何をもたらしてくれるのか」という視点だ。はるか彼方にいる高度なテクニシャンを探し出すことよりも、今目の前にいる人に真摯に仕事に向き合ってもらう方が企業にとっては効率がいい施策だと思う。
もちろん、職業人としてスキルが大事なのは間違いない。ただ、本書を読んで改めて感じたが、企業が前向きに仕事をする組織であり続けるためには、真摯に仕事をしようとする「自分の仕事をつくる」企業文化を涵養することが大事なのではないだろうか。