チャールズ・マレー著、「階級『断絶』社会アメリカ: 新上流と新下流の出現」を読んだ。
今も昔も「格差」はあったが、上流層も下流層も一定の範囲内で共通の「文化」を共有していた。ところが、この50年(本書の分析期間である1960年~2010年)の間に、知識労働者の増加や大学進学率の向上等が起き、これまでと違った「新上流階層」が生まれたと筆者は捉えている。
知識労働者同士の結婚による二世・三世の誕生と都市部への知識労働者の集積によって、「新上流」と「新下流」は、単に収入や資産の多寡だけの差でなく、住むところから異なるようになり、生活様式や考え方まで乖離してしまった。
これにより建国以来共有されてきた「アメリカ」的な考え方が崩壊しつつある、というのが大まかな本書の内容。
じつはこれ2018年に買ったんですが、2年ほど積読していて、最近ようやく読み切りました。遅。
トランプ現象や右派・左派の過激な対立、昨今のリベラルをめぐる問題の背景には、こういう社会の変化/分断があるのだろうなと感じた。アメリカのデータを前提に著述されているが、居住地域で所得が違うなんて話は日本でも起きており、同じような分断が起きている実感はある。
エンリコ・モレッティの「年収は「住むところ」で決まる ─ 雇用とイノベーションの都市経済学」やリチャード・フロリダの「クリエイティブ都市論」はこういう変化を、都市の機能として(意識的にではないにせよ)肯定的に捉えている。
都市政策として「クリエイティブ人材が集積する都市を目指しましょう」みたいな題目を自治体が掲げているのをよく見るが、知識労働社会を前提としてしまうと、本書で指摘するような分断が結果的に促進されてしまう可能性は否定できない。
自治体としては、落す税金が高い知識労働者を抱えようとするのは一面、合理的だと思うが、社会全体・国家全体を見たときに本当にそれでいいのか、良く考える必要があるのではないか。
富山でも、小地域単位での同質性がだんだんと高まってきている気がする。例えば、新興住宅団地はその近傍の有力企業の従業員が転居してくる場合が多く、富山駅前は芝園小・中に入れたいがために転居してくる教育熱心な家庭が多いイメージ。一方で、郊外田園地区や中山間地域は土着の農家を出自とする家庭が中心になっている。都市内での分断は、地方都市でもどんどん進んでいるのではないか。
また、「年収1300万円でも『低所得』 米サンフランシスコの実情」 が典型例だが、小地域単位で「階層化」が進んでいくと、「そこに住む経済的余力がある人」が選別され、分断が再生産されてしまう。これが定常状態になることは、果たしてそこに住む人間を幸せにするのか。
以前、ツイッターで↓みたいなこと書いたが、確かに首都圏は収入高い企業が多いものの、こういう構造下では、見かけの収入ほど人は幸福になれないのかもしれない。収入1単位あたりの価値が、固定的経費の多寡で実質的に異なってきているのではないか。
富山で家買うのに3000万円として、都内だと2倍から3倍は固いわけで、ローン支払いだけで年間100~200万円ぐらい掛かり増し。お受験や塾やと言い出したらさらに+50万円ぐらいいくでしょ。税金や社会保険料負担考えたら地方より200~300万円ぐらい収入多くないと財布がバランスしないかもね。
— tefujita (@tefujita) 2020年6月23日